何年か振りの『佐野画伯通信』

11.4.27 BTI.No.121より

今から8年前、このBRAIN に破格の教師がいました。

毎晩のように朝まで酒を飲み、満員の通勤電車の中、一人酒臭い息を吐き、大いびきをかいて東京⇔高尾間を何往復もする。青梅に庵を構え、そこで梅酒を密造しながら、近所のスイミングスクールに若い女性のインストラクター目当てで入会し、その真の姿は絵描きであったという先生。

それが佐野先生だったわけです。彼は8年前に実家の福島に帰り、当地にて「佐野塾」(BRAIN 東北支部)を開いております。その佐野先生から震災についてのメールが届きました。

震災

2011.3.11.14:46……嫌でも記憶に刻まれてしまったこの文字列、パスワードとして使う気にはなれません。あの時を境に私達の世界は一変してしまいました。皆さんもさぞ苦悩されてきたことでしょう。電気・水道・ガス・灯油にガソリンが使えるありがたさを噛みしめながらも雑用に追われる日々。なかなか本業に専念できないもどかしさ。さすがに私も落胆しました。3月28日からようやく業務を再開し、活力を取り戻しているところです。

実は私、あの宮城県沖地震で被災経験があります。しかし、今回の本震ばかりは異次元の世界。宮城県沖地震もすっかり霞んでしまいました。何しろ余震でさえあれに近いのが来るのですから。これで皆さんも精巧な地震計並みに感覚が研ぎ澄まされてしまったのではないでしょうか?「今のは震度5弱だ!」みたいな。

あの時

あの時、私は国道4号線を福島県の桑折から国見へ向かって運転中でした。

「おかしい…どうもハンドルをとられる。強風ではない。地震か!」

前の晩、就寝中に2度も地震があったことがふと頭に浮かび、そう直感しました。まず、周囲に危険がないかを確認しながら車を左に寄せて停車。やはり、来ました。「強い!」慌ててエンジンもストップ。そこから先は全てが予想外。「これでもか!これでもか!」とますます増幅する強烈な揺れ。一向に収まる気配がありません。近くを流れる小川の水が大きく跳ね上がっています。安全な場所にいるはずなのに、「車が横転するんじゃないか?」と思わんばかりの揺れ。50mほど離れた場所に立つ民家の屋根瓦が次々に崩れ落ち、家全体が斜めに傾いてしまいました。「恐ろしい…こんな揺れは宮城県沖なんてもんじゃない!」

しかし、この地震の本当の恐ろしさは、そんな程度では済みませんでした。福島県中通りにいる私達が次々に来る余震に悩まされている頃、太平洋岸で暮らす人々は想像を絶する脅威に直面していたのです。停電の間、単1電池を6個も詰めたラジオから信じられない情報が流れてきました。そして、電気復旧後、テレビの映像を見て我が目を疑い、言葉を失いました。それは、ハリウッド映画でもインド洋の大津波でもなく、かつて私とかかわりのある東北地方太平洋岸で起こった現実なのです。

ある夏の旅

あれは2006年夏期講習を終えた8月最後の週でした。塾講師の研修の旅という名目で、東北の魅力を思いっきり満喫しようと、まず秋田県湯沢市界隈を旅しました。美人ばかりいるらしいし…。そこでの3泊のうち1泊は人が滅多に入らない清流でキャンプ。山の自然・文化の魅力を存分に味わいました。

今度は海が恋しくなり、太平洋を目指し横手を経由して東へ進み、岩手県を横断。遠野をじっくり見学した後、大船渡を抜け、陸前高田の碁石海岸へ。海岸の石がまるで黒い碁石のように丸く滑らかであることから、その名がついたようです。海沿いにいい雰囲気の民宿を発見し、そこで1泊することに決定。予約なしでも何とかなるのも三陸の魅力です。

風呂上がりの晩飯に豪華な刺身の盛り合わせが出たのはもちろんですが、毛ガニが丸ごと出てきたのにはびっくり。でも、それ以上に感激したのはサンマの塩焼きでした。醤油は不要。頭と骨以外は全部平らげました。朝獲りの旬のサンマって、高級魚と呼びたくなるほど甘くて味わい深い魚だったのです。

やはり、三陸の海は偉大でした。山で美味い物を求めると、獲物を仕留める高度な技術はもちろん食材の調理法に技巧を凝らさなければなりません。ところが、海ときたら「美味い物とは何か?」という問いに対する答を簡単に出してしまうのですね。

陸前高田から気仙沼へ

翌日、陸前高田の眺めを堪能した後、宮城県唐桑半島を先端まで探検。天気に恵まれたこともあるでしょうが、ここは日本離れした光です。「東北のイタリア」と名付けることにしました。昼食は気仙沼港の魚市場内の食堂で煮魚定食を注文。その美味さは言うまでもなし。食後はもちろん魚市場で海産物をいろいろ買い込み、気仙沼を出発。

「気仙沼へ行ったら、フェリーで大島へ渡って、そこの民宿で過ごすのがお奨めね。きっと気に入るよ。」

気仙沼出身の知人からそう念を押されていましたが、時間がなく断念。今思えば、あのアドバイスを忠実に守り、強引に予定変更してでも大島で1泊しておけばよかった。「その気になれば、いつでも行けるさ!」と思ったばっかりに…。

気仙沼を出て、少しひなびた感じの旧歌津町に志津川町(現南三陸町)の景色を眺めながら車を走らせます。人々は昔ながらの景観を守っていました。旅の最後は北上川の河口探検。東北一の長さを誇る川の河口はやはりスケールが違いました。

それにしても、さすが日本を代表するリアス式海岸です。三陸沿岸は東北の宝、いや国宝だと感じました。本来陸奥・陸中・陸前の3つを合わせて三陸と呼ぶのですから、厳密に言えば陸前沿岸=南三陸、つまり長大な三陸海岸の一部を旅したに過ぎませんが。

さあ、ここからどういうコースで福島へ帰るか?本当はここから仙台まで海岸線のコースを楽しみたかったのですが、女川で原発に興ざめするのは御免だと思い、石巻から松島に塩釜を経由するコースは諦めて内陸を走り、現大崎市の古川インターから福島へ戻りました。

昔の記憶

さて、この辺りで私の記憶を中学時代まで遡らせてください。

あれは中2の時です。海なし県埼玉から宮城県名取市へ引っ越しました。自宅は東北本線名取駅から徒歩15分。名取から列車に乗れば、仙台まで15分。当時の私は、とにかく海に憧れていました。自宅から6kmの市内東端には太平洋が広がっています。仙台平野の起伏のない平坦な道をまっすぐ、自転車に乗れば30分もかからずに到着できるなんて凄いことです。市の人口は当時約5万。天気予報は、仙台よりも福島県浜通りを参考にしました。そのほうが当たる確率が高いのです。

食生活も大きく変わりました。埼玉にいた頃魚は大嫌いで、海の魚が美味いだなんて1度も思ったことがありません。ところが、名取では食卓に出てくるどの魚も美味い。以来すっかり魚好きに。市内の魚屋には閖上港から毎朝新鮮な魚が届くからです。

海釣りの魅力を教えてもらったのもこの時期です。いとこからアドバイスを受けながら閖上の釣具店で投げ釣り用の釣り道具を手に入れ、夏の週末にはいとこに連れられ弟も一緒に何度も出かけました。ハゼとカレイがよくかかり、釣れた獲物は家で母に唐揚げにしてもらいました。美味かったですよ。

海水浴行ったな~

そんな名取市内で唯一不満だったのは、海水浴場がなかったこと。典型的な砂浜海岸でしたが、波が荒く海底で急に深くなる箇所があるらしく、全て遊泳禁止区域になっていました。

そこで、真夏に近場でどうしても海水浴がしたい時は、サッカー部の仲間数人と自転車でまず閖上へ行き、名取川河口の閖上大橋を渡って海岸沿いに北へ進み、仙台市荒浜の深沼海水浴場(現若林区)まで何度か足を延ばしました。閖上から4kmくらいです。とにかく自転車1台あれば、片道10kmくらいなら当然のように足を運んだものです。この海水浴場の唯一の欠点は、遠くに仙台港の石油タンクや工場らしき建物が見え、少々違和感をおぼえること。

これに耐えられない時は、松島方面の海水浴場まで足を運びました。行き先は決まって野蒜海岸。仙台から仙石線に乗って、本塩釜や松島海岸を越え、野蒜駅(旧矢本町、現東松島市)で降り、歩いてすぐの砂浜海水浴場です。中2の夏休みにはるばる埼玉から訪ねてきた友人数人をここに案内し、とても喜んでもらえたのも良い思い出です。

高校時代

ついでに高校時代。この頃は部活が忙しく、海水浴の記憶はなし。ただ、独り自転車を走らせ、名取市内の北釜へ足を運ぶことがありました。やはり自宅から6km。仙台空港のすぐ近くで、周囲は田んぼが広がり、閖上の賑わいとは対照的に人が少ない所です。車を気にせずサイクリングをしたくなったり、読書に集中したくなったり、海と飛行機を眺めながら独り物思いに耽りたくなった時の貴重な海岸でした。

石巻市中心部から南東方向へ突き出た牡鹿半島にも触れておかねば。ここに初めて足を踏み入れたのは高1の時。当時、私の母校は修学旅行がない代わりに、高1と高2それぞれ6月に宿泊行事がありました。高2で行った蔵王の山小屋での一泊も懐かしいですが、高1で行った牡鹿半島沖の網地島巡検(生物・地学の実習)はとても印象深い体験でした。

まず、バスで仙台を発ち石巻を経由して牡鹿半島の先端部鮎川港まで行きます。牡鹿半島の道は左右両側に海が見え、すばらしい。鮎川はかつて捕鯨基地として賑わった港です。そこからフェリーで網地島へ。ここは全くと言っていいほど観光地らしくなく、まさに秘境。本州を離れて島に渡ったのも民宿での宿泊を体験したのも、この時が初めてです。

ホヤという海洋生物を知ったのもこの時。見た目から「海のパイナップル」と呼ばれ、これを初めて食べて美味いと感じる人は酒飲みの素質十分だとか。ちなみに私は刺身だと味より歯ごたえに魅力を感じ、味なら刺身より塩辛のほうが美味いように感じます。いずれにせよ、ホヤに合うのは、やはり宮城の地酒かな。

網地島へ行ったのはその1度だけですが、鮎川なら大学時代に2度訪ねています。鯨料理のフルコースを楽しみながらの酒宴が目的で、その後は麻雀。まず、ゴールデンウィークの真夜中に4人で車1台東京を出発し、東北道を北上します。早朝、名取の実家に立ち寄り、皆でひと眠り。昼は松島で遊覧船に乗り、湾内を一周。遊覧船を追ってくるカモメに餌をやりながらはしゃいだ後、瑞巌寺をじっくり見学して心を清めてから一気に牡鹿半島鮎川へ。今この界隈は全て石巻市に入っているようですが、当時は確か牡鹿町だったかな。まだ女川原発が運転を開始する前のことでした。

Fukushima

今、かつての思い出の地が泣いています。オイルショックと200海里以降遠洋漁業を大幅に制限され、伝統食文化が理解できない狂信者から沿岸捕鯨まで禁じられ、「我欲」なんぞ持ちようもなく慎ましく暮らし、長い間日本の豊かさを支えてきた人々が、あんな悲惨な目に遭うなんて…。そして、国内屈指の農業王国、福島県は最悪の人災まで加わり、Fukushimaとしてチェルノブイリと並び称されて世界史に名を刻むことになるなんて…。

でも、もう私の涙は枯れ果てました。強烈な怒りも通り越しました。既に東京をはじめ様々な地域に住む友は、行動しています。狂人の都知事再選を許したことを恥じ、消費電力を気にしつつ馬車馬のように働き、自粛ムードを無視して東北の酒を飲みまくり、放射線検査合格済みの福島県産食品を大量に店頭に並べるよう店に働きかけ、沿岸部被災地の瓦礫撤去に黙々と汗を流し、東北を援護しています。

そんな友に私も負けてはいられません。本業の人材育成業務はもちろん、あとは自分が貢献できることを見つけて一生懸命尽くすのみ。微力ながら、それこそが犠牲になった方々の鎮魂へ、そしていつの日か東北が輝きを取り戻す原動力へと繋がるのですから。