コルトーの夢

大学センター試験、中学入試、私立高校入試が終わり、残すところ都立高校入試と、国立をはじめとする大学入試になってきた今日この頃、皆さんいかがお過ごしのことでしょう。受験生諸君には最後の最後まで力を振り絞って、諦めることなく頑張ってもらいたいと思っています。

コルトー・ホール

さて、突然ですが来月21日に山口県下関市に「コルトーホール」という音楽専用ホールが完成します。たかが地方の音楽ホールがなんだ…。と言われてしまいそうですが、この「コルトー」って知ってますか?

今やお稽古事天国の感がある日本ですが、実は今に始まったことではありません。私の幼少の頃から、「ピアノ教室」をはじめ「絵画教室」「水泳教室」「英語教室」「バレエ教室」「お琴教室」「日本舞踊」などなどいろいろなお稽古事がありました。

お稽古事と言ってもねー

とはいえ、誰もがみんな「ピアニストになりたい」とか「北島康祐みたいになりたい」などと、それらのお稽古事を徹底的にやって本職にしようと思っているわけではありません。まあ、「あわよくば…」と思っている方は多いかとは思いますが…。

たいがいの生徒たちは途中で終わってしまったり、いやいや通っている現実などが見られるようです。そんな中途半端が多い中でBRAIN のお母様の中には、バレエでイタリア公演に行った方や、ドイツで10何年も声楽を勉強していた方もいらっしゃるんですよ。

中途半端なお稽古事

特にピアノは結局やめちゃったという子供たちが目立つようです。何で中途でやめちゃうんでしょうか? ものにならないうちにやめちゃうんでしょうか?

ピアノやヴァイオリン、バレエなど芸術関係で言えることは、その世界でやっていける人は、大抵1年もやれば将来が見えてしまうということです。

たとえば、ピアノ教室で子供たちがたくさん練習していますが、一目見て才能のある子はわかってしまうんです。あとの子は趣味程度しかできないので、だんだんつまらなくなってくるんです。全然先に進めなくなってしまう子がたくさん出てきて、つまらなくなって、いやいや通うようになってしまうんです。

才能を伸ばせない簡単な理由

逆に行えば、その子の持っている才能を伸ばす教育ができてないところが多いんです。例えばピアノ教室。なんで才能が伸びないのか一発でわかります。本物のすばらしいピアノを聞かせないからです。 つまり、ただ与えられた課題をこなしていくだけで、夢や目標が設定できてないんですよ。

高校生で小さい頃からピアノを習っている生徒がいますが、驚くべきことに、バックハウス、ギーゼキング、シュナーベル、ホロヴィッツ、ベネデッティ=ミケランジェロ、ゼルキンなどなどの大ピアニストの名前すら知らないんですよ。もちろんこの大ピアニストの演奏するベートーヴェンなど聞いたこともないでしょう。

頭悪くちゃピアノだって弾けない

「バックハウスのベートーヴェンのようなピアノが弾いてみたい」「ポリーニのショパンに近づきたい」「リヒテルのラフマニノフを超えたい」などと思えば、とことん必死で練習するでしょう。

「それじゃピアノの練習ばっかりで、勉強なんてできないじゃないか」と言われそうですが、ピアノなど音楽をはじめとする芸術関係を極めるには、頭がよくなくちゃダメなんです。楽譜なんて一曲分くらい簡単に頭に入らない子は、勉強どころかピアノもできませんよ。

ああそれなのにそれなのに、家でテレビばっかり見て、若い女の子や男の子が集団で黄色い声で歌ってるような歌ばっかり聴いていたら、ピアノなんかまともに弾けるわけないじゃないですか。

アルフレット・コルトー

だから突然最初に戻って「コルトー」のことを知らないんです。ピアノをかじったことのある人なら、コルトーのことは当たり前に知ってるはずなんですよ!!!

コルトーが校訂したり監修したショパンの楽譜を持っている人はいませんか? 戦前から戦後まで活躍し、ピアノのひとつの時代を築いたフランスの大ピアニストがアルフレット・コルトーなんです。

山口県の下関という町は、終戦直後までは外国の領事館が7つもあるほどハイカラな町でした。今も旧英国領事館は内部を見学できるくらいに保存されていて、関門海峡を挟んで下関と門司は明治から昭和の香りが漂う「レトロの町」として異彩を放っています。

そんな事情で外国文化に関して寛容であった下関は、終戦後すぐの1952年にこのコルトーを招いて演奏会を行ったわけです。

下関の「夢の島~孤留島」

下関駅から車で30分ほど離れた、川棚温泉という小さな温泉街に宿泊したコルトーは、ここに来て

「日本は素晴らしい。なぜか外国にいる気がしない。
日本はブレ・ペイ(本当の国)だ。
そう言える国はたくさんあるものじゃない。永久にここに住んでも悔いはない」

と同行していた愛弟子にもらしたそうです。

そのホテルの窓から日本海を眺めてすごしたコルトーは、特に窓から見える日本海の風景と、その青い海に浮かぶ4つの小さな島からなる『厚島』にすっかり魅了されてしまう。コルトーは厚島を「永住の地にしたい」とまで思いつめるようになり、当時の川棚の町長に「あの無人島(厚島)に住みたい。ぜひ売ってくれないか」と申し込んだわけです。

世界の大ピアニストからの再三の申し出に当時の川棚町長は「あの島に永久にお住みになるなら無償で差し上げましょう」と答えたといいます。コルトーは「トレビアン(感激)」を連発、「必ずまた戻る」と村長と何度も握手をし、「私の思いはひとりあの島に残るだろう」とつぶやいたそうです。

また、集まった人々により、島の名前を「孤留島(コルトー)」と命名することも提案され、コルトーは大変感激しています。

ここからは下関観光協会のお話

しかし、既に75歳だったコルトーは帰国後病に倒れ、思いを果たせぬまま、10年後にこの世を去りました。その後、川棚村は合併、コルトーの宿泊した川棚観光ホテルも廃業となり、やがて孤留島の話は過去のものとして細々と語り継がれるのみとなっていました。

コルトーがパリに設立したエコール・ノルマル音楽院には「カワタナにある夢の島」の話が残されていました。コルトーは、「僕の名前の島が日本にあるんだ」と楽しそうに話し、「孤留島」と彫った印鑑を手紙のサインの脇に必ず押していました。また、すっかり体が弱った晩年にも「日本に夢の島がある。もう一度行きたい」と家族に話していたそうです。

近年、コルトー没後40年の記念事業として、生前コルトーが周囲に話していた「『カワタナ』で見つけた夢の島」探しが始まり、2003(平成15)年10月、ついに孤留島と厚島とが再び結びつきました。

フランスで語り継がれていた「美しい夢の島」の思い出や、彼を取り巻く人たちの輪によって、途絶えかけていたコルトーと豊浦(現下関市)の関係は、今また数十年ぶりに結ばれることとなりました。もしかするとコルトーの魂は、彼のもう一つの故郷である厚島に今も住み続けているのかもしれません。

コルトーホール完成

いいお話でしょう~。生前の彼は病に倒れたにもかかわらず、周囲のフランス人たちに『日本の下関に夢の島を買うのだ』と繰り返し、カワタナ、カワタナ、と夢見る目つきで島のことを語りつつ、亡くなったそうです。彼の残した晩年の日記にも厚島で暮らす楽しい計画が書かれ、カワタナでの思い出がつづられていたとか。

そして今、コルトーの「夢の島」の話を思い出したエコール・ノルマル音楽院長のコルトーの息子さんと下関市の江嶋潔市長との間で、とんとん拍子に話が進んでコルトーが愛したカワタナに、コルトーの名前を冠した音楽ホールを建設し、コルトーの愛した自然をめでながら美しい音楽を聴ける施設をつくることに決まったということです。そしてこの3月に「コルトーホール」が完成するのです!!

夢を持っていこう

コルトーだって75歳で夢を持った。BRAIN の生徒たちはまだまだ若い。「自分の能力が××だから…」「○○ができないから…」なんて言ってないで、夢、そう大志を持つんだ。

かのクラーク博士も言ってました。

Boys, be ambitious!!   ~少年よ、大志を抱け!!

それを伸ばすのが私たち教師であると思っています。どんどん希望を伝え老人3人衆をこき使っていきましょう。

BRAIN TRUST INFORMATION  No.97

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