慰霊の日

梅雨に入り雨が多いなーと思えば、雨の降らない日は異常な暑さ。なんでしょうね、この天気。やっぱり異常気象としかいえない今日この頃、皆様いかがお過ごしのことでしょう。

暑い夏を迎えていますが、今年は肌を露出するのは危険極まりないことです。常に肌を服で覆い、外出時にはマスクもつけるべきでしょう。帰宅時にはうがい・手洗いも忘れてはいけません。放射能は「目に見えない」ため、万全を期することが肝心です。

「目に見えない」敵は、今から66年前、私のルーツ、沖縄でも住民たちを襲いました。

1945年6月23日

この日の沖縄も暑い日だったのでしょう。ついに20万人を越える戦死者を出した沖縄戦が終結しました。日本国内で唯一、一般国民が地上戦を体験したのがこの沖縄戦です。住民は約9万4千人が戦死、沖縄戦の死者の約半数は一般国民だったのです。太平洋戦争の中でも日本にとっては特別な戦争だったといえるでしょう。

沖縄戦といえば、2001年度BRAIN 通信40号aでも取り上げた「ひめゆり」部隊が最も有名ですが、今回は以前訴訟にまで発展した事件について考えてみました。

光子さんの体験…琉球新報の記事より

光子さんは糸満市生まれ。十・十空襲の日があった1944年10月10日、当時6歳だった光子さんは家族6人で自宅近くの山林に隠れていた。母親と姉妹3人を残し、父親に手を引かれて移動した直後、米軍機の爆弾が付近に落ち光子さんは生き埋めに。父親に掘り起こされた後、2人で元の場所に戻ると姉妹3人はすでに死亡。母親は下半身がない状態で「水をちょうだい」と訴えていた。

父親と一緒に4人の遺体を埋葬し、向かった先が伊良皆の奥にある「クーニー山壕」。村史によると『集団自決』があったのは45年4月6日。

村史には壕内の日本兵2人が手榴弾による自決を促したとされるが、光子さん自身は日本兵の存在は覚えていない。光子さんは壕内にいたある男性に首を絞められた。激しく抵抗すると、父親が「小さいから殺さなくてもすぐ死ぬ」と制止し、助かった。男性は父親と長男の首を絞めて殺し、親類の数人も手にかけた。「誰も抵抗しなかった。死ぬ覚悟だったんでしょう」

壕では手榴弾で多くの人が自決した。折り重なって死ぬ人々の様子が幼い目には「富士山」のように見え、脳裏に刻まれているという。

集団自決

沖縄戦では、一般住民が集団で自殺する「集団自決」が多く行われた。伊江村約100人、恩納村11人、読谷村のチビチリガマなど121人以上、沖縄市美里33人、うるま市具志川14人、八重瀬町玉城7人、糸満市カミントウ壕など80人、座間味島234人、慶留間島53人、渡嘉敷島329人など、計1,000人以上が集団自決で亡くなったといわれている(ウィキペディアより)。

ただ、121人以上の「自決」者を出したチビチリガマから約600m離れた、読谷村の住民だけがいた同じような壕では一人も死者が出なかった。集団自決が行われた壕には必ず、軍人、軍人関係者がいたとも言われ、軍の関与が裁判でも争われた(「大江・岩波」集団自決訴訟)こともある。ただ、私がここで一番疑問だったのは「自決」であったか否かだ。

「自決」というのはあくまでも「自らの意思」によって死ぬということであって、そこには強制や誘導は欠片もない。軍人が「自らの意思」で責任をとって死ぬことは「自決」であっても、住民が、果たして「自決」という言葉を使うことが出来るのだろうか? まして、「集団自決」などあり得るのだろうか?

戦前の軍国教育

日本の一般国民は西洋人のことは欠片も知らなかった。西洋人に対する無知が、無知からの恐怖を生み出し、パニックすると西洋人に吠えかかる。当時の日本人は西洋人に対してはただの犬同然だった。

その犬のごとく無知な国民に、軍国主義は「恐ろしい西洋人」という教育を押し付けた。戦前戦中のスローガンがそれだ。「米英鬼畜」「生きて虜囚の辱を受けず」などなど。それが「外国人は恐ろしい」「つかまれば陵辱され殺害される」と、どんどんエスカレートする。でも、実際は「恐ろしい」のは日本の軍人の方だった。

日本の軍人が住民にしたこと

日本軍は、沖縄の住民に米軍への投降をしないよう命令していた。投降しようとした住民が治安維持法違反として射殺されることもあった。さらに住民の食糧を『徴発』と称して略奪した軍人もいた。住民が沖縄方言を使うと、米軍の『スパイ』と見做され、軍人から殺されることもあった。

また、米軍と戦闘中に、住民の避難していた壕に立ち入り、自分が助かるために、住民を威嚇して壕から追い出し、住民を米軍の戦火にさらし、死に追い込んだ軍人もいた。さらに、住民の壕に入った軍人の一団から、『このまま放置すれば米軍に発見される』と泣き叫ぶ乳児の殺害を強要され、わが子を手にかけた哀れな住民もいた。

西洋人と日本の軍人のどっちが「恐ろしかった」のか…

それでも「集団自決」と言えるのか

「集団自決」は軍の強制があったかなかったかが散々騒がれ、訴訟もおき、4万人近くを集めた大集会もあった。そして教科書検定問題もこの「集団自決」で紛糾した。しかし、そんなことは瑣末なことだ。

「現実」に恐ろしい日本の軍人と「仮想」で恐ろしい西洋人、沖縄の住民たちは、戦時下はいつもこの二つの恐怖に挟まれていた。要は、こんなどっちを向いても恐怖しかなかった当時の沖縄の住民が、自らの「意思」で自己の「意思」を選択することが出来たのか、と言うことだ。

出来るわけない。

集団で命を絶った実態は、日本の軍国主義が作り上げた心の中への「目に見えない」強制や「目に見えない」誘導、「目に見えない」命令によるものだった。つまり「集団自決」とは、「目に見えない敵」の力による『強制集団死』が本質と言える。

まともな教育をしよう

国際法上、捕虜になるのは軍人だけで民間人は保護されることになっていた。住民は捕虜にはならない。「捕虜となるのは恥辱である」なんて大嘘だった。

当時、沖縄だけで地上戦が行われたと言う特殊事情があったにせよ、日本の政府が、軍人たちが、沖縄の住民に対して、降伏の方法などの国際的な常識を教えなかったことが、このただでさえ悲惨な沖縄戦をより一層深刻なものにしてしまった。

そして、日本の政府が、軍人たちが、日本の全国民に対して、外国や外国人に対する正しい常識を教えなかったことが、悲惨な太平洋戦争をより一層深刻なものにし、日本を世界で初の被爆国にしてしまったのだ。

そして今、福島原発によって、私たちは再び被爆の恐怖を味わっている。今度ばかりは、日本政府、東京電力を始め関係者たちが、真実を伝えてくれることを切望する。

私たち教育に携わっているものをはじめ、すべての大人たちが、誤った教育を正し、力を合わせて正しい教育をしなければいけないと思う「慰霊」の日、6月23日でした。

BRAIN TRUST INFORMATION  No.123

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