国語のお話

00.4.21 BTI No.19より

塾頭から「国語についても何か書いたらどうか」と話が出たので、そしてまた自分でも今までの経験をまとまった形にして自分の今後の資にしたいという気持ちもあって、国語についての話を始めることにしました。

私の「国語」観

といって、いざ書こうとしたら何からどこから書いたらいいのか、ずいぶん考えてしまいました。皆さんから何かご質問が出たり、あるいは授業の中で、見知った生徒が目の前にいて、読む文章もあって、その問題に生徒たちがどんな答えを出しているかも分かっていて、というふうに、具体的な「場」があれば、そんなに苦労せずとも話は思いつくのですが、そうした「きっかけ」が何もないところで、自分から何かをしゃべり出すというのは難しいことだと改めて思いました。

しかしやはり文章にはしないといけないとなると、あれやこれや考えた末、「場」がないときっかけがつかまえられないというそのことが、ひょっとしたら自分の「国語」観と深くかかわっているのかもしれない、いやきっとかかわっている、と思われ始めましたので、先の展開など考えずに、とりあえずこの辺りから話を始めてしまおうと思います。

国語の「スピード感」

だいたい私は―こんなことを書くと「何だこの教師は」と思われるかもしれませんが―その日の授業で何を話すかどんな授業にするかほとんど考えずに授業に臨みます。授業前にすることといえば、教材にする問題文を選ぶことと、その内容(設問の内容も含めて)に関してどんな「余談」を話すか、くらいです(最近は余談もあまり準備しなくなりましたが…)。

そして授業に入って、生徒たちが文章題を解き始めてから、自分でももう一度文章と設問を読み直し、生徒の解答もみながら、「この問いではこういうことを話そう」「文章のこの部分は少ししっかり理解してもらおう」というように、授業(解説)の流れを考えるのです。

こういうやり方をするのは、ひとつには、事前にあまり考え過ぎ、決め過ぎると、解説の流れ、というかスピード感といったものが失われるという感じを、何度か持ったことがあったからです。私はこの「スピード感」というのが、国語の授業ではとても大切なのではないかと、この頃思うようになっています。

授業のポイントは?

話は少しとんでしまいますが、国語の授業のポイントは、私は「教師の話の面白さ」ではないかと、今のところは思っています。この「面白さ」という言葉には、大変広い意味を持たせたいと思います。

例えば、問いに対する答えの根拠(なぜ答えはこうでなければならないか)がムダなくわかりやすく生徒に伝わるということ、これは「面白い」というよりは「快い」ということになるでしょうか。

あるいはまた、その教材文に特有の、文章としての面白さをそれと指摘して生徒に気づかせる、気づいている生徒には自分の読みの正しさを確認してもらう、これは「知的な満足感」とでもいったらいいでしょうか。

さらには文章に関して教師自身の体験や文章に対する批判などを話せば、教師との気持ちのつながりが強まったりするかもしれません。

国語の授業の「善し悪し」

いずれにしても、文章題というのは、初めてその文章を読み、それに対して設けられた質問にその場で考えて答えるという形を取るわけで、他科目のように(他科目も全部はそうではないですが)「知っているからできる」という問題ではない(漢字や文法はいったんはおくとして)のですから、自分の答えがはずれたら、それはそれでもうしかたがないわけです、一生懸命やってそれではずれたんですから。

その時点でもう彼は「次の文章をよく読んであとの問いに答えなさい」という指示には一応こたえたわけです(本当は「よく」は読んでいないことが多いのですが、それはまたあとの話にします)。

だから「何でこんな問題できないんだ」と、国語の場合には言えない。それどころか、まさにここから「授業」つまり「業(わざ)」を「授ける」ことが始まるわけです。

というのは、「なぜ答えはこうでなければならないか」つまり「正答の根拠」を、設問を含む問題文全体の中から、具体的なことばに即して取り出し、明快な手順で、ひとつの「話」として生徒に聞かせ、「分かった」という自覚を持たせる(納得させる)のが、国語読解の授業(解説)の最低要件だからです。

教師は、ある一つの文章題に即して、この文章を「よく読む」というのはこういうことだと、生徒にことばを通して具体的に示すわけです。ですから国語の授業の善し悪しは、

① 教師が正答の根拠を文章に即してムダなく筋立てて話せるかどうか、
② しかもその話を生徒にきちんと聞かせられるかどうか、

の2点にかかっている、といっていいかもしれません。

授業の流れ

ここまでくると、話は先ほどの「スピード感の重要性」につながりそうです。
生徒は、読みたくもない、読んでも意味の分からないところがたくさんある文章を読んで、時間を切られてせっせと問いに答え、やっと終わったと思ったら、今度は教師の分かりづらくてノリの悪い話、というのでは、あまりにも気の毒です。

ストレスもたまるでしょうし、第一、話を持続的に聞いていないので、かんじんの「納得」が得られず、 ただ「はやく答えを言わんかい」みたいな、言ってみれば家で問題集を解いているのとまったく同じこと(お金と労力を考えるとかえってそのほうがまだまし)をしているだけになってしまいます。

私も教師になってからしばらくはあれやこれや考えてプリントにゴチャゴチャと書き込みをした上で授業に臨んでいましたが、そうするとそれがかえって「授業の流れ」の邪魔になるということにだんだん気づいてきました。生徒から思いがけない質問があったりすると、話が自分の話したい方向と離れてしまうことに気を取られ、その質問を上手に授業の中に取り入れられなかったりということもありました。

生徒の表情を見ながら、ちょっとくたびれているようなら予定の解説を手短にしたり、解説する問いの順番をかえてみたり、質問に応じて予定外の話をとっさにいれてみたり、そういう臨機応変の知恵みたいなものが、ある自然な快いテンポを生み、生徒に「面白い授業だ」という印象を与えるのではないか、と私は思うようになりました。

話を聞くことが大事

「スピード感」と言いましたが、それは必ずしも「速く」なくてもいいのです。生徒と教師のやりとり、教師の解説(板書も含めて)などが生む、ある「テンポ」が、生徒にとって(そして話している教師にとっても)「快い」「スムーズだ」「混乱してこない」などという印象を生めば、それは「スピード感」がある授業だと言っていいと思います。私自身の授業がそこまでできているかどうかは、正直言ってまだまだ自信はありませんが、少なくとも今の私が求めている「読解の授業」というのはこういう姿です。

ここまで書いて振り返ってみると、話は教師の側から見た「国語の読解授業の要件」ということになりましたが、これを生徒の側から見ると、生徒に最も求められているものは「教師の話を聞くことだ」ということになってきそうです。

それでは、また次回お会いするまで。